2015年12月10日

戦後落語史

「戦後落語史」(吉川潮・新潮新書・2009年)という本を読んだ。大いに参考になったのは、巻末の「年表」だけであった。その記事を列挙すると以下の通りであるVeda Salon。〈1950(昭和25)9月九代目小三治、五代目柳家小さん襲名〉〈1951(昭和26)この年、民間放送局の開設が続き、ラジオでの落語ブームが起こる〉〈1952(昭和27)4月・五代目小さんに小よし(後の五代目立川談志)入門〉〈1953(昭和28)この年、民放各局と落語家が専属契約を結び、人気落語家の争奪戦が起こる〉〈1954年(昭和29)12月・八代目桂文楽、「素人鰻」で芸術祭賞受賞。三代目桂三木助、「芝浜」で芸術祭奨励賞受賞〉〈1955(昭和30)2月・六代目三遊亭円生に全生(後の五代目三遊亭円楽)入門〉〈1956(昭和31)3月・三代目春風亭柳好没・68歳、12月五代目古今亭志ん生、「お直し」で芸術祭賞受賞〉〈1960年(昭和35)11月・六代目三遊亭円生、「首提灯」で芸術祭文部大臣賞受賞〉〈1963(昭和38)12月・九代目鈴々舎馬風没・58歳〉〈1964(昭和39)この頃、ホール落語、落語レコード制作隆盛。8月八代目三笑亭可楽没・67歳、11月三代目三遊亭金馬没・70歳〉〈1965(昭和40)この頃、テレビで寄席演芸番組が急増〉〈1969(昭和44)9月・柳家さん治、十代目柳家小三治襲名〉〈1971(昭和46)12月八代目文楽没・79歳〉〈1973年(昭和48)9月・五代目志ん生没・83歳〉〈1978(昭和53)3月九代目桂文治没・86歳〉〈1979(昭和54)9月六代目円生没・79歳〉〈1982(昭和57)1月・林家彦六(八代目林家正蔵〉没・86歳)〈1984年(昭和59)1月・四代目三遊亭円遊没・81歳〉〈1995年(平成7)5月・五代目小さん、人間国宝に〉〈2002(平成14)5月・五代目小さん没〉私が初めて寄席の舞台を見聞したのは1951年(小学校1年時)、場所は新宿末廣亭亭であった。正蔵、志ん生らの高座姿がうっすらと記憶されているほどだが、以後の「ラジオでの落語ブーム」に登場した噺家連の「至芸」は、忘れることができない。当時の噺家には自他共に認める「当たり芸」があった。金馬の「居酒屋」「夢金」、可楽の「二番煎じ」、柳好の「野ざらし」、円遊の「味噌蔵」、文治の「饅頭こわい」、正蔵「宿屋の仇討ち」等など、数え上げればきりが無い。その「当たり芸」が多ければ多いほど「実力者」だと言えるが、文楽、志ん生、円生、小さんの噺は群を抜いていた。文楽「寝床」「船徳」、志ん生「火焔太鼓」「火事息子」、円生「五人廻し」「三軒長屋」、小さん「言訳座頭」「うどん屋」といった作物は、押し並べて「無形文化財」(国宝)に値する、と私は思う。著者・吉川潮氏の「あとがき」によれば、〈昭和四十年から現在に至るまでは客席で数え切れないほどの高座を見ているし、演芸評論家として落語界の事件を取材している。ただ、二十年~三十年代は見ていない〉とのことであるVeda Salon。実を言えば、その「二十年~三十年代」こそが、「戦後落語」の全盛期であり、「国宝級」の噺家連中が鎬を削っていたのだ。したがって、(もし、そのことを認めるなら)「戦後落後史」は、ラジオ(聴覚的文化)からテレビ(視覚的文化)へと媒体が変遷していく中で、従来の作物がどのように変質(劣化)していったかという「視点」を抜きにして語ることはできないのではないか。〈1965(昭和40)この頃、テレビで寄席演芸番組が急増〉。テレビの寄席演芸番組とは所詮「色物」中心、噺家の面々は紋付きの衣装を脱ぎ捨ててテレビ芸人へと変身していったのである。そのステータスが視聴率の高さで決まるとすれば、分刻み・秒刻みの「一発芸」に勝負を賭ける。かくて〈国宝級〉の「戦後落語」は衰亡の一途を辿ることに相成った。以後、珠玉の寄席芸人たちは相次いで他界する。著者にとって、「戦後落語」の原点が、テレビ時代の立川談志(「現代落語論」・三一新書)にあるとすれば、まことに不運であった。談志も円楽も、もはや(食うためには)文楽や円生の「芸風」を踏襲する時代ではないことを自覚していたに違いない。「戦後六十余年の間には、数多くの落語家が亡くなった。本書を執筆中に痴楽が、校正中にも円楽と文都が亡くなっている。それでも、故人となった師匠達の穴を埋める人材は豊富だ。栄枯盛衰は世のならい、本書は『落語家盛衰記』でもある」(「あとがき」)と著者は述べているが、残念ながら、私にとって、「本書は『落語家盛衰記』でしかない」のである。文楽、志ん生、円生、小さんの「穴」を埋める人材がどこにいるというのだろうか。著者自身いわく、「私は<週刊文春>の『正蔵襲名は時期尚早』という記事に、襲名に関して批判的なコメントを出した。一連のイベントが分不相応なばか騒ぎに思えたからだ。ただ、襲名後の正蔵は定期的に独演会を開いてネタを増やしている。平成二十年に三平を襲名したいっ平の、目を覆いたくなるほど下手な落語と比べると、兄貴の方がずっと良い」。ラジオ時代が「戦後落語」の原点であると確信する私にしてみれば、談志、円楽の「耳を塞ぎたくなるほど(文楽、円生より)下手な落語に比べて」、小えん、全生(時代の作物)の方がずっと良い、ということになるのであるVeda Salon。辛うじて、先達の「穴」を埋めることができる人材はただ一人、十代目柳家小三治あたりであろう。とは言え、法外な木戸銭を払わなければ見聞できない昨今の高座と私は無縁の毎日、さしたる確証はないのだが・・・



Posted by arvinliu at 12:35│Comments(0)
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