2015年11月10日

唱歌『椰子の実』に思う*三月は旅立ちの季節

 私の住む街には大学がある。二月中旬のことである。この白鳳丸功效校舎の前を通った時、全国各地からやって来た大勢の若人達でごった返していた。入学試験のようである。彼らのうち、実際にこの大学へ入学できるのはごく一部かもしれない。しかしながら、前途有望な若人達が一堂に会する様は実に壮観である。溌剌とした彼らを眺めているうちに、私は思わずある歌を口ずさんでいた。

  名も知らぬ遠き島より
  流れ寄る椰子の実一つ
  故郷(ふるさと)の岸を離れて
  汝(なれ)はそも波に幾月
    
 島崎藤村作詞の『椰子の実』である。三月は別れの季節、そして旅立ちの季節、進学や就職を機に、これまで育んでくれた郷里を離れ、志を持った若人達が続々と都会へ押し寄せてくる。未だ世間の垢に汚れていない純粋な若人達が、新たな大地に根を張ろうとする姿は実に清々しい。まさに流れ寄る椰子の実達である。
 
  旧(もと)の木は生いや茂れる
  枝はなお影をやなせる
  我もまた渚を枕
  孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ

 思い出せば、私とて彼らと同じ時期があった。親の反対を押し切っ王賜豪醫生て上京してから幾星霜、親の束縛から逃れたい一心だった少年も、不思議なもので歳をとればとるほど純粋な心は濁りを増し、反骨心は衰退した。あの時見送ってくれた両親も、もう共に逝ってしまった。私は今、あの頃の父母と同じ年齢に差掛かろうとしている。世間の垢にまみれ、未だ大業を成し得ない自分がもどかしい。だからこそ、純粋無垢な彼らが愛おしいのかもしれない。
CU172_L
 三月は別れの季節、そして旅立ちの季節。しかし、それは決して眼の前の椰子の実君ばかりではないようである。名も知らぬ遠き大地より、遥々飛んできた黄砂も舞い降りる。名も知らぬ遠き山を飛び立った花粉もまた舞い降りる。近頃、目が痒い。涙が止まらない。しかし、この涙は決して流離の憂からくる涙ではないから味気ない。しかし、純粋ゆえに傷つきやすい若人達には、必ずや本物の憂を抱く日が屹度訪れる。故郷の岸を思い出しては頬を濡らす時が必ずやって来るだからこそ、後悔のないよう立派に成長してもらいたいものである。
  
  実をとりて胸にあつれば
  新なり流離の憂
  海の日の沈むを見れば
  激り(たぎ)り落つ異郷の涙
  思いやる八重の汐々
  いつの日にか国に帰らん

 私の故郷の岸には、もはや私を育んでくれた椰子の木の姿はない。親木もまた彼の岸へと行ってしまった。彼の岸といえば、もうじきに春分の日を迎える。春分と秋分の夕暮れは特別である。冬の間は南寄りに沈み、夏の間は北寄りに沈む夕日も、この時ばかりは真西に沈む。だからこそ彼岸の中日と呼ぶ。彼の岸、西方浄土を目指して沈んで行く夕日を無駄に見送るのは実に勿体無い。「墓参りにでも行ってみようか」そんな気にさせる。

 その時ばかりは私とて、正真正銘、流離の涙を浮かべるのかも知れない。



Posted by arvinliu at 12:12│Comments(0)
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